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寒かった。
寒かった。
ここのところの私の口癖である。
いや、ここ数日の寒波というのは並々ならぬものらしいから、きっと我輩以外の大勢も口々にそう零しているのであろうと、用意に予測はつくが。
それにしても、寒かった。
一日の暮れ、とっぷりと夜も深まった頃合いに、口からそればかりを零しながら、半纏に包まり、湯たんぽを用意し、部屋に暖房をきかせ、寝床があたたまるのを待っている。本当はゆるりと風呂にも入りたいところだが、あいにく、寒さのあまりに発熱を伴う風邪を引いてしまったものだから諦めた。無念だ。そしていつも、湯たんぽを準備してから己は気づく。
布団があたたまるまで、しばらく時間がかかるじゃないか。
困る、というより、抜けていた、という実感のほうが先走る。いやはや、抜けていた。もはや日課にも等しい行動であるのに、いつも、そういつもなのだ。いつも湯たんぽが布団を温めきるのに時間がかかるのを失念し、湯たんぽが出来上がりさえすれば、寒かったの言葉を置き去りに快適な布団でまどろむことができるとすっかり思い込んでしまう。
まったく、どうして毎日繰り返していても忘れてしまうのか。俺は我が馬鹿らしくて仕方がない。本当に馬鹿らしくて仕方がないのだが、しかしかといって自分が平身低頭を尽くし不出来を嘆いてみせれば布団が即座にあたたまるということはなく、やはりこれはこれで仕方がないことなのだと納得する。せざるを得ない。おのれ、僕。
そうして不意に産んでしまった消費すべき時間をやりすごして。
室温にあたたまり心凪いできた頃合いに。
ようやっと、布団はあたたかな一日の幕引きを整えてくれるのだ。
ああ、今日も寒かった。
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いざ長い文章を書いてみると、なにかと過不足があることに気づいた。
ゆえ、これはあくまでも闇夜を手探るが如き投稿であること承知願いたい。
文章を書く、という行為そのものが好きだ。
タイピングをする、という行為そのものが好きだ。
文章を考える、という行為そのものももちろん好きだ。
では文章を考えながらタイピングすることも楽しいのかと問われれば、それにはいいや不足がありすぎると答えざるを得ない。
もともと頭で考えていることのほうが突っ走りがちである吾としては、タイプすることで思考を追いかけるように打ち出される文字に、どうにももどかしさを感じずにはいられないのである。
紙に書くこともそう違わないのではないかと言われることだろう。
まったくもってその通りだ。
その通りだが、紙に書いていくときは必死になって指を動かせば(みてくれは劣悪そのものであろうが)ある程度まで思いついた瞬間と並走する事ができる。
記号を多く書き連ねる必要があるならば、なおさらのことだ。
ところがキーボードというのはどうだ。
打ち出したい文字に対応するキーはひとつだけ、ブラインドタッチを覚えてもホームポジションが崩れればすぐに珍妙な羅列に早変わり。
己の手が平均を幾分も下回って小柄であることもひとつ要因であろうが、それにしても考えていたことを直接記すにはあまりに不都合が多すぎる。
そうまで言うならばこのご時世、写真のひとつでも撮ってアナログで更新すればいいじゃあないかという話なのだが。
わざわざキーボードを打ち込みタイプする理由もまたしっかりとある。
唯一、それでいて決定的に。
デジタルでタイプした文章は、書き直しで紙が汚れることがない。
僕はとんでもない完璧主義あるいは飽き性で、たとえばちょっとインクが跳ねただとか、ちょっと漢字を間違えてしまっただとか、それを訂正すべく線を引いただとか、抑え方が悪くすこし端がよれただとか、そういった些細な失敗であっという間にその紙に何かを書き続ける気力をすっかり失ってしまうのだ。
そのたび書き直せばいいのだろうが、あいにく余は不注意も筋金入りだ。何枚用紙があったところで、インクを使い切って破産してしまうことだろう。
となれば、それらよりは随分と安い電気代だけで動かすことができ、みてくれを損なわず何度も修正できるデジタルで作るのは、貧乏な俺からすれば当然のところであるのだ。
そういうわけで、今日も文句をたらしたらし、私は液晶画面とキーボード、それからIMEにはさっぱり頭があがらないのである。
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あまり細かいことをいきなり気にするのも良くないとは思うが、いざなにか書いてやろうと意気込みを入れると、やはり見栄えを気にせずにはいられない。
己はそういう人間である。
すこし昔話をさせていただこう。
日常生活における自分は非常に縮こまっていながらも慇懃無礼な人間で、平たく言うならば人の感情の機敏に非常識なまでに疎い。会話中、突然相手から激昂されるのはよくあることで、児童のころはドラマや小説あるいは漫画のキャラクターを見よう見まねでコミュニケーションを取ろうとし怒られることも度々あった。
こちらとしては何の説明もされず突如として嫌悪を示されたわけなので、感じられるのはただただ困惑と自己嫌悪だけである。あまりにも繰り返し叱責されるものだから必死になって礼儀作法を学んだが、結果として礼儀作法をそれなりに覚えていて腰の低いだけのとんでもない慇懃無礼ができあがるだけのこととなった。
幸い、近頃どうにもそれが生まれつきの障害であると知ることはできたが、だからといってわけもわからぬまま他者に嫌悪される恐怖から解放されたわけではない。
匿名であるインターネットの上であっても、他者とコミュニケーションを取っている以上その恐怖はつきまとってきた。
SNSであれば、長く続けるうち知り合った知人に嫌われたくない心から自然あれやこれや己という個人をよりよく、無害であると示すためのふるまいを意識してしまう。
掲示板であれば、己があまりに頓珍漢なことを口走っていないか、周囲から無条件に批判されるような非道徳的な発言になっていないか、文体がその掲示板で一般的に使われているものかを真剣に何度も調べ、それからやっと投稿するも、レスポンシブが来るのか、それがプラスであるのかマイナスであるのかが気になってしまい30分は画面から離れられない。
結果として、素直な意見を発信したいと始めたそれらでも、僕は縮こまった慇懃無礼として収まってしまう運びとなった。
ようは、このブログは環境を一新する、という名目で作った逃避先というヤツである。
このブログもきっといずれ、世に数多くいる、たしか情報リテラシー、と言ったか、そういったものに長けた人物が読めばあっという間に私にたどり着くものになるのだろう。
そうであれ、ここが存在している限り、たとえ名目だけのものであったとしても、小生はただのしゃべりたがりの、ここでだけ名を明かすしがない物書きになれるのだ。
きっとここに書くことはどうしようもない些事と与太話の塊であろうが。
某の逃避行は、はじまったばかりなのだ。